ART CLUB 先輩の肩に流れ落ちる黒いなめらかな髪を見つめていた。普段だったら二つに結んである。でも、今日はすとんと落ちたストレート。
ずいぶん伸びた、その髪も、初めて目にしたときは肩につかないショートヘアだったのに。
「先輩、元気出してください」
初めて先輩に出会ったときのような可愛い声はもう出ない。俺の声も変わったのだ。そういや先輩が俺のこと可愛いなんて言ってからかうこともなくなった。
「泣いてないってば」
「うそつき……」
俺は頬を膨らませて拗ねる様子をみせた。もう可愛くないのは知ってる。これは変な癖なんだ。「空気の読めない後輩ね」と、先輩は呟いた。先輩が俺のことを可愛いなんて言うからだ。だから、どこか、まだ可愛いと言ってもらいたい自分がいる。期待している俺は……少しきもちわるい。
今は、もう何もない。やっと慣れた美術室の匂いも寂しさを漂わせていた。広いその部屋には六人座れる大きなボロ机がいくつも並べられている。
この部屋の中央で、五人はいつも集まっていた。誰もが好きなように絵を描いては見せ合っていた。水彩絵の具と水の匂い、油絵の具と油の匂い、色鉛筆の芯や木の匂いが、もっと強くはっきり匂っていた。
今は、もう何もない。
少し前の出来事だった。
「いらねー」
気の強い女子の声と乾いた音が近くで響く。卒業の日にビンタまでしなくてもな。そんなことを考えているとき、久しぶりに美術室に俺以外の人がやってきた。
きっと、この女は言えなかったのだろう、「いらない」と。久しぶりに俺の目の現れた先輩の大きく膨れたポケットを見て思う。ポケットにいれるもんなのか。紙袋を持っているのに。
「だって紙袋の中に入れたらどっか行っちゃうかもしれないじゃない。貰っちゃったんだから、一応、酷い扱いはできないわよ」
意味わかんねえ。
二人の教室に風がびゅうびゅう吹き込む。ストーブしか設置されてないものの、風通しがいいこの教室は夏場でも涼しい場所のひとつだった。
「先輩、モテるんだね」
俺は呟いた。
「第二がいくつ入っているかなんて知らない」
先輩は寂しそうに笑った。もうずっと寂しそうな顔しかしていない。
「あいつ、は……」
美術室に健くんはいない。彼も俺たちの前から何も言わずにいなくなる。
「なんで来ないんだろうね」
俺の目の前で先輩がうずくまった。笑うことしか知らないと思っていた先輩が、長い髪を垂らして、いつもより短いスカートを握って、卒業証書の筒を床に落として。
「いやだよ……」
いつもより輝いて見える先輩なのに、今日は泣いていた。
「わたしは健くんの何がほしかったんだろう。ボタンかな、言葉かな。でも、なんか、なんでもいいから何かほしかったの。なんでみんな何も言わずにどこかへ行くんだろ。ねえ……わたし、わたしは……」
パニックっていうんだろうか、俺はただ冷めた目でうずくまる先輩を見下ろしていた。先輩は酷く震えている手で俺に両手を差し出した。
「おねがいだから――」
先輩はきっと孤独が嫌いだ。いい人なのに、不器用だからうまく生きていけない。今すぐみんなを集めて泣いている先輩を見せつけてやりたかった。先輩は俺の好きでもない人たちを好きだった。みんないなくなって泣いている。卒業する先輩を送り出せるのは俺しかいない。俺でいいのかも、疑問なのに。
「俺はどこにも行ってなかったでしょ。ずっと待ってた」
俺の差し出した手を、先輩はすがるように両手でぎゅっと掴んだ。
「美術室に行けば、あんたが待っていると知っていた。わたしたち知っていた。でも、わたしたちにとってそれは逃げることだと思って。
だってここは楽しいから。頑張るってあんたに約束したのに、帰ってきて笑われるなんて嫌だもの」
「頑張ったじゃないですか、先輩。合格おめでとうございます」
「全然頑張ってない……。なにもしなかったの。できなかったの」
先輩の目からまた大粒の涙が溢れた。
「何もかも不安で、何をしていいのかわからないまま受験で。わからないまま受かって。わからないまま卒業式の練習で……そうしているうちに、ここへ戻れるタイミングもわからなくなって……」
なによりもこの部屋と俺を含めた四人を愛していた先輩だった。なぜそこまで好きだったのか今ならわかる。先輩は、絵が大好きで、人間をすごく愛していて、なにより居場所が欲しかった。そうだろうと思う。
先輩の好きなこの部室。俺にとってつまらなかった学校。先輩の幸せそうな笑顔がここでの日々を幸せにしてくれたのは間違いなかった。
いつか先輩は言っていた。
「尊敬しているの。綺麗で繊細な絵を描くんだ。でも普段は違って、もっと堂々と輝いているってかんじの女子なんだよ。……少し寂しいの。教室にいるときは、なんだか、違う種類の人間みたい」
先輩は同級生のある女子に、大きな尊敬を示していた。
見た目は体育会系で、いつも丁寧な身だしなみと、整った顔が、俺も美しいなと感じていた彼女は美術部員のひとりだった。
先輩はそんな彼女に学校生活の中ではなかなか近づけなかったようだったが、しかし放課後の美術室ではそんなことは感じられないほど仲良くしていた記憶がある。
俺は苦手意識があってそんなに仲良くはなかったが、俺たちは五人で楽しい時間を過ごしていた。
あと二人、同級生のツインテールと、先輩と同じ学年の健くんがいた。健くんは俺にとっては先輩だけど、みんな、健くんと呼んでいた
。美術部はかなりお気楽で友達のような部活……同好会のようなものだった。
先輩は油彩画を好んでよく描いていた。健くんは人物画が好きで先輩のクロッキーを何枚も描いていた。人物画もそうだけど、先輩のことも好きだったんだろうと思ってる。
ツインテールはイラストが驚くほど上手で、日々デッサンと風景画を交えながら漫画の上達よ、と息込んでいた。
そして先輩が尊敬していた彼女と言えば、花のスケッチしかしない人だった。クレパスや色鉛筆、水彩でいつも細い線をみずみずしく彩る。とても繊細な絵を描いた。誰もがきれいと言いたくなる絵を描いた。
しかしそんな彼女が一年前、何も言わずに去っていったのが今思えば全ての始まりで。
挨拶ひとつせず転校していった彼女。先輩曰くクラスメートと涙のさようならをしたそうだけど、残された美術部員には何一つ言わないままだった。あんなに仲良くしていたのに。誰かが卒業するまで、ずっと五人は一緒だと誰もが思っていたのに。
「なんか、わたしたちには興味がなかったのかもしれないね」
そう言った先輩の顔が忘れられない。
残された四人の美術室には静かな空気が漂っていた。
ツインテールは去っていってしまった彼女をとても慕っていて、そいつは美術室に来ては泣きだしていた気がする。先輩の前で辛気くさい雰囲気をつくる、俺にとってそいつはうざったい存在の他なかった。しばらく湿った日々が続いたがやがてツインテールも来なくなる。
物寂しそうな先輩に対して、健くんは平然としていた。案外、健くんも二人に興味がなかったのではないだろうか。俺は自分と同じような存在に鳥肌が立つ。この部活は絵が好きで集まった、自分中心な人しかいないのだ。きっとそう気づいたが、誰も口に出さなかった。
「まあ三人でも仲良くやろうな」と健くんは言う。その言葉を聞いて、先輩も笑顔を取り戻した。先輩の元気が出たならそれでよかったんだけれど、やがて先輩たちは受験の勉強へと入っていったから部活もそう持たなかった。
ほんの一年前なのか。
この美術室もにぎやかだったのにな。空気が輝いてるようだった。
「いろいろあったよね」
先輩が口を開いた。
「あんた、大きくなったよね」
「ばあちゃんみたいなこと言って。二年間しか知らないくせに」
「二年間で変わったよ、かっこよくなったじゃない」
そう言われると思わず顔が熱くなった。きっと今、俺の顔は真っ赤になっているんだろう。
「成長期で、すから」
照れを誤魔化そうと平然に言ってみたつもりだったけど、噛んだ。
俺の手が解放されてからも、先輩は膝を抱えて丸まったまま動こうとしない。
「先輩ってば。向こうで記念撮影しあってますよ。行かなくていいんですか」
どこへも行ってほしくないと思いつつ先輩へ問いかける。窓から見える正門の方へ流れる人たちは涙ぐみながらも誰もが笑顔を浮かべている。
でも、先輩の涙は違う。
俺は窓際に寄り掛かってそれらを眺めていた。先輩の発する嗚咽がだんだんと小さくなっていくのを聞いていた。
最初に会ったときは同じ新入部員だと間違えるほどの童顔で、もともと小さい背との身長差は俺の成長期によりますます差がついた。今でも年下のように見えるこの女は、相変わらずあどけない笑顔を見せている。
「……なんですか?」
先輩が泣き腫らした顔で俺の方を向いて立っていた。すっかり立ち直ってしまっている。うーん、弱ってる顔も可愛かったのだけど。
「ジュースを買ってきてよ。ほら……受験合格と卒業祝い。他の部活もやってるじゃない。後輩が、やってくれるでしょ?」
「いまさら」
この人は。ため息が出てくる。しかし事実、祝ってあげてないから何も言えない。
「イチゴミルク?」
「イチゴミルクと、カフェオレを」
そう言って笑った先輩は、五百円玉を放ってよこした。
今年は早めの桜の花が学校の周りを桃色に囲んでいる。
コンビニで買ってきたイチゴミルクとカフェオレと、先ほど受け取った五百円玉を机に置いた。
先輩が机に駆け寄る。追って甘い香りがかすかに匂った。
先輩は俺にカフェオレを手渡すと、
「意外、奢ってくれるの。ありがとう」
と、イチゴミルクを右手に、もう一方の手で五百円玉を掲げた。
「それじゃあ、カンパイ!」
紙パックのぶつかるかすれた鈍い音。
「乳飲料で乾杯か」
「いいでしょう?」
無邪気な笑み。椅子をくっつけて、すぐ隣に座ってくる先輩。美術室の空気は冷たい。でも肩と肩が触れるところが温かかった。
黙ってゆっくり紙パックの中身を飲んでいた。昔は絶えず会話が続いていたのに、何を話して良いかわからない。今話さないといけないはずなのに、互いに言葉は出てこない。
まあ……それでも、いいかな。
「先輩」
「ん、なに?」
俺は紙パックを目の前の机の上に置いて、その空いた手で先輩の紙パックを奪う。
そしてもう片方の手ですぐ隣にある先輩の肩を、掴んだ。
そのまま、静かに、先輩の唇へ。
「返してよ、イチゴミルク」
「びっくりして握りつぶして中身ぶちまけないようにと思って。運動会の時の麦茶みたいに」
「あ、あれはねえ、健くんがいきなり抱きついてくるからねえ」
「いつものことじゃないか」
「いつもびっくりするのよ。もういい加減忘れて」
「大惨事でしたよね、麦茶」
「いいから、忘れて」
先輩が恥ずかしそうに怒鳴る。ついさっきの出来事も忘れてるんじゃないかな。そんなとこもまた可愛いけれど。
「あ!」
俺がイチゴミルクを一口いただくと、先輩が声をあげた。意外とケチだな。
「俺のおごりだからいいじゃないですか」
もう一口飲もうとすると、先輩の頬が膨れた。拗ねてる。
口の中にミルクの味が残っている。
先輩の香り。
さよなら。最後だけでも。そう思っただけだった。それ以上は要らないと思っていた。それなのに、なんで、今まで以上に離したくなくなってしまうんだろう。不思議だなあ。
なんだか無意識に先輩を抱きしめようとして――先輩が抱きついてきた。
「ごめんなさい」
先輩は呟いた。
「ごめんなさい、でも、今だけ」
先輩が俺の胸に顔を埋めて震えていた。
“今だけ”
俺と同じ気持ちでいてくれたらどんなに幸せか。きっと、不安で寂しいだけの先輩の背中に腕を回す。ずっとこうしていられたらいいのに。ずっとずっとこのままでいたいのに。
先輩は卒業。先輩は高校。先輩はひとつ上の女の人。だからなんだとも言えるけど、だから困ったものなんだ。現実は。
「あげる、から」
先輩が顔を埋めたまま、イチゴミルクを差し出した。
「え」
「あげるから!」
「あ……はい」
とりあえず、イチゴミルクも好きになりそうで。
俺はただ先輩を抱きしめたまま、鳥が鳴くのを聞いていた。
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