制服の上にダッフルコートを着て、毛糸の手袋をつけた手で使い捨てカイロを貴重品のように抱きしめ彼女は玄関のドアを開けた僕の前に立っていた。ぐるぐる巻かれた紺と赤のギンガムチェックのマフラーに顔が半分埋もれている。二本の細い足が小刻みに震えていて、それを見ていると、彼女にスカートを履かせておくのは酷だと思う。
「さむ……」
外に出るとすぐにぐったりした夏の彼女を思い出す。保冷剤アイスを額に当てながら早く冬が来ないかなあなんて四六時中言っていた。彼女は暑さにも寒さにもひどく弱い。
「あがれよ。ホットミルクいれてやるから」
「熱くしないでね」
かっこつけて言っても彼女の返事はそんなもんだ。マフラー越しにくぐもった声は、余計に素っ気なく聞こえる。
僕に対して投げかけられる言葉はいつも冷めている、と感じるのは僕だけだろうか。とにかく僕は震える彼女を暖房の効いた家に入れて、リビングの椅子に座らせた。それからぬるい牛乳の入ったマグカップをテーブルに置く。
「あったまる」
そんなぬるいので温まるとは不思議だけど、それほど彼女は猫舌で。
カップの中身を飲み干した彼女は制服。僕もたった今、彼女と同じ学校から帰ってきたばかりだったから制服のままだ。
彼女は腕を伸ばして背伸びをすると、ストーブの前にあるソファに移動した。その後ろをロキが追う。
「ロキ、おいでー」
黒猫は、ややグリーンがかった金色の瞳を彼女に向ける。彼は抱き上げられてソファの上に乗り、やがて人の家のソファで勝手に寝転ぶ彼女の脇に落ち着いた。
客人もペットも、僕の姿なんか見えちゃいない。
ふっ、と苦笑してみると、気になったのか彼女がちらっとだけこちらを見たけど、またロキに視線を戻す。彼女に温かさっていうものを求めてはいけない。もっとも彼女は寒いのもキライだけど。
二人掛けの狭いソファに膝を折って丸まる彼女。傍のロキを見つめる彼女の瞳はなによりも柔らかくて優しげだった。指先でそっと彼の頭を撫でている。僕はそれを見て、僕も猫だったならば、なんて、いつも考える。
北欧神話で有名なムードメーカーは美しい美貌と才知に長け、味方するとおもえば裏切る、気まぐれな神である。
黒猫の、彼の名は僕がつけた。彼はもともと野良猫で、学校から帰ってくる時、よく家の前を通ってた彼。全身が黒、ただその瞳だけ金色を見せていた。野良猫にしてはめずらしく長い尻尾を持っていた。
ある日の帰り道も当たり前のように彼は僕の家の前にいた。僕は玄関のドアを開けた。そしたらさも当然のように彼は僕の家にお邪魔したのだ。
彼は家の中を悠々と歩いてその際に立ててある物は倒し、上にある物は落とし、家の中をめちゃくちゃにしようとした。
僕はとりあえずあとから追うように倒された物を立て直し、落とされた物を拾い、彼を捕まえた。それから外に出そうとした時、勝手に玄関のドアが開いたと思ったら妹が顔を見せた。
「かわいい! すごく綺麗な黒猫。どうしたの? 飼おうよ!」
妹は僕の手から彼を奪うと、まだ僕が質問に答えてないのにそんなことを言った。
「おまえな、こいつが何をしたか……」
なんて言おうとしたけれど、妹は聞いちゃいなかった。
ある日、彼女が無類の猫好きだということを知って、
「黒猫も好きなの?」
なんて聞いてみたら、嬉しそうな顔で猫について語り出された。彼女と向かい合ったのは初めてだった。
その日からよくうちに来てはロキといつもくっついている。
妹がかまってやると彼はするりと抜けて僕の部屋(兼、いつの間にかロキの部屋)に帰ってしまうのだが、彼女に対しては気にしないようだ。なんてやつだ。いや、けっして猫に嫉妬なんかしてないさ。してないとも。
彼は黄昏れ屋で、よく台所の流し台の前にある窓から外を眺めている。 もし逃げ出していなくなってしまったら彼女に何て言えばいいんだ、なんて焦ったが、彼は旅立つ予定などないようだった。
毎日ちゃんと黄昏れ時になると台所にやってきて夕焼けの世界を眺めている。そして日が沈むと、僕の部屋に来て、部屋の隅で丸くなる。
共同のスペース、つまりリビングなどで暴れられると困るから、昼間は僕の部屋に閉じこめてあるのだが、どうも抜け出される。ドアの近くに机があるのがいけないのだろうか。しかし暴れてはいないようだった。
静かな部屋に寝息だけが聞こえている。彼女の髪は黒くしっとりとしていて、白い肌がより映える。ロキと寄り添って横になっていると、そこに猫が二匹、昼寝をしているようにもみえた。
僕は部屋からイヤホンを引っ張り出してきてテレビに繋げた。イヤホンを耳にしたまま現在地からやや離れた場所にあるリモコンをとろうとして、耳が引っ張られる感覚と同時に音が消えた。テレビの音がリビングに流れ出したので、慌ててテレビの電源を切って彼女とロキを見る。寝ている。
気を取り直してニュース番組にチャンネルをいれた。イヤホンをつけると、凛とした女性の声が僕らの住む町の名を呼ぶのが聞こえる。
《町の野良猫 相次ぐ謎の死》
そんな文字を目にするのも、その事件を聞くのも、もう三度目くらいだ。
『一週間ほど前から、異常な数の野良猫の死体が相次いで見つかるという事件が起きています。何者かが市販の猫用のエサに刻んだネギを混入させ野良猫たちに食べさせ――』
今まで猫や犬なんかに興味などなかったが、聞いたことがある。動物はネギやタマネギで中毒を起こす。ネギに含まれる成分が赤血球を壊すとかなんとか。
隣の町やそこら辺での事件なら幾度かあるが、しかし、この町の事件をアナウンサーが読み上げるのは聞き慣れない。金目当ての強盗が店に入っても、誰かさんが自殺しても、ああ近くなんだな、と思うくらいだ。連続無差別殺人事件じゃなければ僕には関係ないからだ。
だけれど今、僕は少しだけ心配だった。
もっともロキは室内飼いだ。しかしいつも野良猫を追い回してる彼女は事件に巻き込まれないだろうか。
子猫のような彼女を眺めながら、僕はそんなことを思う。しかし考えると止まらない。いつ彼女が間違って大怪我を負ったり、殺されたりするかなどわからない。それはこの世に生きていれば何だってそうだけれど、そんなことを考えてしまうあたり僕は、彼女が本当に好きだった。
「……う」
彼女が唸る。
狭いソファに丸まって寝ているから体が痛くなったんじゃないだろうか。それでもまだ幸せそうな寝息を聞かせている。
寝ていると人形のようでもある少女を、僕はソファから少し離れたところから眺めた。どっちにしろ、もう日が暮れる。
「………」
暗くなる前に彼女を起こして帰さないといけないと思った僕は、いつも一筋縄じゃ起きない彼女を揺さぶろうと近づいた。
手を伸ばしたその時、ロキが彼女の脇から跳ね起きた。
「うっ?!」
彼はしばらく僕を見つめていて、その顔が『してやったり』みたいに見えて気に食わないぞ。そして僕の間抜けた大声が響いてもすやすや眠り続ける彼女を、今度こそ強く揺さぶって起こしにかかった。
「起きてくださーい」
数回呼んでなんとか起こすことができた。彼女は、まだ寝ぼけた顔でコートを羽織り、マフラーをぐるぐる首にまいた。
「じゃあね、ロキ」
それだけ言うと、僕に軽く会釈して冷たい風に対して愚痴を叫びながら帰っていった。僕はただそんな彼女を見送る。
彼女はロキに会いに来ているのだから僕には端から興味などないこと、知っているけど。
「はあ……」
何度目かのため息をついた。彼女にとって僕がロキのおまけだと思うと、いたたまれない。
リビングに戻り台所を覗くと、黒猫が一匹、流し台の上で外を眺めていた。安いキャットフードの乗った皿を彼の隣に置いて、また自然とため息が出る。
「飯もくれてるんだから、ちょっとは感謝とかしろよ」
僕には目もくれず、飯を食べ始めるロキ。少しも鳴かない猫ほど可愛くないものだと気付く。
彼女は毎週、火曜日と木曜日と金曜日にくる。
なんでか聞いてみたら、
「暇だから」
と、一言だけ返された。
彼女はまったく無口なわけではないし、学校でも普通に言葉を発する。僕の家でも例外ではないが、しかしそれは、だいたい独り言のようなものだったり、ロキに話しかけていたり。僕の質問に熱心に答えたことはない。
それでもまともに口を聞いてくれるだけ別に嫌われてはいないようだった。
嫌いな男の家になど来ないか。そう思うと幸せだと感じる。そんな独り言を僕は何度も呟いてポジティブシンキングを保っているとも言う。
父も母も仕事で、妹なんか放課後は友達の家で過ごしているらしいから六時くらいまでは帰ってこない。
僕はロキと名付けられた猫と、彼を好きな彼女との時間を幸せに思っていた。時が止まってくれればいいと思った。それでなかったらこの日常が、いつまでも続けばいいと、切実に願う。
今日も野良猫が毒殺された。ニュースの女性アナウンサーが落ち着いた声で告げる。彼女が帰った金曜日の夕方。
「ロキ。おいロキ、どこだ」
太陽が落ちきって辺りは完全に暗く、夜になっていた。
いつもと違って部屋に帰ってこない彼を探しに台所へ向う。
いない。黒猫は見当たらない。ただ流し台の正面の開いた窓から、冷たい北風が入り込んでいるだけだった。
「あー……」
やっちゃったか。やっちゃったのか。
ついに彼は、野良猫生活へもどったのだ。危ないこのご時世に勇気あるものだ。ここにいれば、いつまでも安全で幸せだったのに。
それから四日、いつもなら彼女がうちに来る火曜日……僕は、彼女の家にいた。
「なんでだよ」
部屋に入った僕の呟き。
「捜したんだぞ、おまえ」
彼はつんとそっぽを向いたままだ。彼女の家に来た僕は早くも脱落寸前だ。
何かがあるとは思っていた。初めて彼女の家に呼ばれた。「見せたいものがある」、と。彼女が行動するときは何かが起こる。同級生がうわさする。
しかし、彼女の家に見覚えのある黒猫が当たり前のようにいたのには……。
「びっくりした?」
いや、もう君たちの気まぐれマイペースにはついていけない。勝手にしたらどうだ。ついに僕は彼女に降参する。
「やだやだ、そんな顔しないでよ。はい」
差し出されたミルクティー。
「……ありがとう」
信じられないほど、ぬるい。というより冷たいに近い。それでも黙って口にする。
「それ、毒が入ってるかも」
「え」
何を言われたかよくわからなくて、よくわからなかった。
「って、思わないのかな。ふふ、その反応おもしろい」
その時、彼女が僕に笑いかける顔を初めて見た。
リビングルームには時計からなにからアンティークな置物が多く飾ってあった。
彼女の家の台所は、家の真ん中あたりにあるから窓はない。もちろん夕暮れに外を眺めることはできなかった。
それでも、いいのか。僕よりここがいいのか。本当に可愛らしくない猫だ。
ふと流し台にネギが二、三本あるのが目に入る。
「ああ、それあまったの。今晩のうどんに入れるつもり。一緒にどう?」
僕は何も言わなかった。
「どうしたの? うどん嫌い?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
そうとだけ言って、僕は苦笑いした。
「じゃあ一緒に食べようよ。どうせうちには遅くまで誰もいないから、自分のために料理なんかしても楽しくないし」
「親、そんな遅くまで仕事なんだ」
僕の両親は夜になれば遅くならずに帰ってくるから、晩飯が一人なことはない。
「……無関心なんだ、うちの親。わたしが何をしたって気付きやしない」
今日は、なんでそんなに話すのかな。
夢心地のような、ふわふわした感覚で、僕は彼女の家に立っていた。
「わたしね、猫が大好きなの」
ぬるいうどんを手元に、重大な告白をするように言う彼女。
「知ってる」
「そうだね。知ってるよね」
嬉しそう。
「綺麗で、気ままで憧れる。ロキのこと大好き、ロキに変わる子なんていない。見つからない」
うっとりとした眼差し。
「野良猫なんてみんなバカ。ロキが一番なの。ワガママで知的で可愛らしくて。ね、そう思うでしょ?」
それは、彼女の挑戦だったのかもしれない。あるいはただ何となしに試しただけで、あるいは興味本意のみかもしれない。どれにしても彼女はきっと寂しかったんだろう。
「気付いてもらいたかったんだ?」
寂しいこと、愛したいこと、愛されたいこと。
「うん」
彼女は、また幸せそうに笑った。
「苦しんで死んでいく様は見ていられなかった、ロキのように黒く強く生きるのが一番きれい――そう思うでしょ?」
いちいち同意を求めてくる彼女が、自分を正当化したい彼女が、あんなに美しいだけの整った彼女の顔が、初めて、痛々しく見えた。
ただ、
「そうだね」
それが異常であっても、僕は惹かれていた。
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