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【小説】マンホール

 ある日、僕はマンホールの側に、ゆっくりと慎重に自転車を止めた。耳を澄ませば、やっぱりその丸い鉄のフタから十時のラジオが聞こえてきた。傘をさす気も起こらない小雨の降る暗い路地から、僕は誰にも気づかれないようゆっくり自転車を漕ぎ出し、去っていった。

 次の週の土曜日も、高校受験を控えた僕はやっぱりまじめに塾へ通った。とりあえず十時ちかくまで談笑しながら、暗い夜道を自転車で家路につき、息を殺してマンホールの隣を通り抜けた。はずむように愉快な男性の声が、リスナーのみなさん、と呼びかけていたのがふわっと耳に入る。僕はそれを確認すると、やっぱり静かに去っていった。

 僕の部屋にはラジオがあったが、土曜日に塾が休みになっても、十時からのラジオは聞いてみたくは思わなかった。

 僕はめでたく高校生になった。塾をやめてしまってから、マンホールの道を十時に通ることはなくなった。土曜日の十時はいつも、ゲームをしていたりテレビを見ていたり、いつの間にか気がつかないうちに過ぎてしまっていた。

 枯れ葉が落ち始め高校生も退屈になってきたころ、僕は友達と別れひとり家路についた。遅い時間、人通りの少ない暗い中を自転車ですいすいっと走り抜けるのは懐かしい気持ちだ。……あの頃は頑張っていた。決して未来は見えず、夢も見なかったけれど、空っぽで夢見ている今よりはずっと何かが詰まっていた。
 今さらになってよくよく考えてみた僕は、心拍が大きくなっていくのを感じた。当たり前のように聞こえていたマンホールのラジオ。僕は十時にしか聞こえないことを知っている。僕は“そいつ”が十時の番組が好きなんだと思っていた。僕はその番組名も知っている。新聞のラジオ欄で調べたからだ。
 しかし、僕は“そいつ”のことを忘れていた。僕は“そいつ”を知らなかった。
 いろんな作り話が浮んでくると、急に手が冷え切っていることに気づいた。知らないうちにハンドルを路地裏に向けてしまっていた僕は、マンホールから十分距離を離して乱暴に過ぎ去った。僕だと気づかれたくなかったからだ。僕は何も知らない、ただ偶然この道を通りすぎただけの一般人だ。

 どうか僕だと気づかないでくれ。
 僕は何も知らない。僕は君を知らない。知らない。

 僕は部屋に入り込むと、ラジオを付けた。聞き慣れていた懐かしい男性の声は、まったく変わらないで弾んだ声色で、リスナーのみなさんからの恋のお便りです、と紹介した。


 小さな穴からピンポイントで相手の方を見ているような、そんな恋心ですかね。


 そんな恋心はごめんだと、僕は布団を頭までかぶって寝た。

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