ぴんと直線に張った糸が弛むこともなく張りすぎることもなく。俺は常に一定の距離から、おまえの笑顔を見ていた。どうでもいいくらいに、おまえのダメさも知っている。だから、どうでもいいくらいにお前のことなんかどうでもよかった。
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ボ ー ダ ー ラ イ ン
夏。太陽の光はきらめいていて、都会の空気はうざったいほど水分を含んで熱くなっている。
俺は素振りをしていたバットをおろして、歩道の段差にただ座っている然(ぜん)に向いて言った。
「もういいよ」
「あ?」
同じく夏の空気にいらいらしているだろう然が、不機嫌に応える。
「もう応援、来なくて、いいよ」
然は少しの間だけきょとんと目を丸くして、立ち上がりながら俺に聞く。
「なんでだよ」
俺は空中を仰いだ。が、息苦しさは変わらない。
「俺、帰る。疲れた」
土曜日の昼下がり。猛暑の季節。道行く人も見えない。俺は数メートル先にある自分の家に向かって歩き出した。後ろからいろいろ問う声が聞こえる。聞き飽きた然の声。
夏の日差しに、空気に、俺のバット、白い球、グローブ、歓声。全て。お前の隣の、笑顔。全てに、俺はいらいらしていた。
涼しい部屋のドアを閉めると、暑い空気と共にそれら全てが遮断される。
ざまあみろ、そんな気分だった。なのに、寂しい。
よく解らない気持ちのまま、そこに立ち尽くす。
いつだって、こうやって全てを遮断することはできる。全ての関係を自分から断ち切ることはできるのだ。ああ、日差しが強すぎたわけじゃなかった。いつもより気温が高いわけではなかった。バットの芯でボールを弾く音。ボールが丁寧にグローブの中に収まる音。俺はよくやった。点数が少ないわけでも、結果が悪いわけでもなかった。
俺はきっと、然の隣の笑顔が気に入らなかったんだ。
ちょっとした公園のグラウンド、その日陰の応援席に座っている然と佑梨。俺の名を呼んで、励ましてくれる然。その、隣にいた佑梨は、なんで俺を見ていない?
然を見る、佑梨の笑顔が脳裏から離れなくて――。
近すぎず遠すぎず、お前は俺といつも平行だった。
どうでもいいくらいに、平行だった。
どうでもいいくらいに、交わらず、反れず、大切な親友だった。
糸が、ぴんと張りつめた。きっと、俺が引っ張っているからだ。もう、なにもかも捨ててしまいたい。息苦しい。張りつめた糸を断ち切ってしまいたい。
携帯電話が鳴っていた。聞き慣れたメロディに引き寄せられるように、俺は携帯電話を手にする。
「今、大丈夫? 今日は大活躍だったね」
佑梨の、高く澄んだ、嬉しそうな声。
「自主練、いつも頑張ってるんだってね。わたしも呼んでよ。付き合ってあげる。休みの日はいっつも暇だから。あ、体力はあるんだから」
佑梨が言葉を繋げていく。
「別に、つまんないよ」
「いいの、いいの」
「でも……」
「あ、じゃまになる? ならいいの」
それもそうかもしれない。けれど、俺がじゃまでじゃまと言えるのは、おそらく然だけ。
「夕方だし……」
「全然問題ないよ、大丈夫。わたし暇なんだ。あー、わたしも少しは走ったりしなきゃなあ……もう部活ない日はダラダラ。うちの陸部ってたいしてハードじゃないし。いつがいい? いつやる?」
「なら、来週の週末でも」
それは俺にしても佑梨にしても、休日を一緒に過ごす口実でしかないことを、もう知っていた。
すごく不安定な佑梨と俺の仲。それは、だんだん近づいていることに変わりはなかった。そこに然が入ってきたって、俺と然は平行で、佑梨と然も平行だ。
わかっていた。
佑梨の声を聴きながら、後悔する。なにをそんなにイライラしていたんだろう。なにをそんなに……心配していたんだろう。
肌寒いくらい冷えた部屋で、俺は冷静に、俺に呆れていた。なんにも知らない佑梨の声がする。俺が好きな佑梨の声がする。
「それにしても、深鳴くんは巧弥のこと何でも知ってるんだね。今日すごい聞いちゃった。巧弥のこと、すごい慕ってるっていうか。ホントいい親友というか。聞いてて嬉しくなっちゃう」
俺は、俺たちは今まで、どうでもいい関係なんだと思っていた。でも然は違った。
「そう……だな。どうでもいいくらいに思えるほど親友?」
「いいね、すごいね、そういうふうに言えるって。かっこいーなあ」
「そうか?」
「うん。憧れる。そういう友達がいるってのは、すごく良いことだと思うの。わたしには、うーん……いるかなあ」
「いるだろ、藤沢とか」
「ああうん、あの子は確かに良い子。……うん。そうだね……」
しばらくの沈黙と、電話越しに感じる俺と佑梨との間の掴めそうなくらい熱く水気を含んだ空気。
「じゃあ……またね」
俺はいつもそこでもがいて、もがいて。今、その先にある向こう側の世界に出られそうな気がした。今なら手がとどくような錯覚を見た。
「佑梨! あの、佑梨……俺、佑梨が好き。……で、だから……」
だから何だと言われれば、どうしようもない。
「あ……」
詰まった佑梨の声。
でも俺は、言わなきゃいけなかった。
不器用な俺だから、いつまでも平行を保ち続ける関係なんて、然とだけでじゅうぶんだ。
しばらく経ってから聞こえた、佑梨の悔しそうに小さな声。
「先に、言われちゃった……」
俺はどうしようもなくなって部屋を飛び出し、熱い空気へと飛び込んだ。家の前には、まだ然が、暑い日差しを浴びながら何をする出もなく突っ立っていた。
「どうした?」
俺にぱっと笑顔を作って聞いてくる然。
「何か良いことでもあったか?」
世界が、眩しい。
親友はいつも蜃気楼の向こう。それは自分に似た水蒸気に揺らぐ人。
「……いや」
俺につられたように照れ笑いをする然。
いつもと変わらない真夏日だった。
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