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神よりやさしい人

大学の”イツメン”五人で、台湾旅行に行った。

 占い横丁で、「はやく決めないとセンセイも歳だから腰痛いネ、座らせてヨ」なんて言ってcawaii、『日本語で本格的なうらない』の先生の椅子に座った。

「あなたはやさしい。神よりやさしい人ヨ」

 彼女は優しかった。
 彼女は、あらゆるものなんでもを最終的に許す。なんでも好きで、なんにも嫌いではないのだ。

 ある女が目で追った。
「あいつマジきもい、イライラする。近寄られて、嫌じゃないの」
 問われた彼女は、なんにも嫌いではない。
「気にしたことがない。なんでそんなに気になって、そんなに見ているの」

 彼女は、何事も知るとのめり込む人間である。
「見ちゃうとハマっちゃうし、どうしようかな~」
 恋愛哲学とでもいうか、ありがちな一般論は、嫌いは”気になる”である。だから好きに転じるストーリーが多々あり、全く体験がなくとも不思議と少し共感を得ることがある。

 そして、好きが”気になる”だから、好きの反対は”無関心”であるという。
 つまり、彼女は無関心である。

 彼女は、あらゆるものに興味があり、無関心である。

 彼女は、神より――。




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【小説】

 ART CLUB

 先輩の肩に流れ落ちる黒いなめらかな髪を見つめていた。普段だったら二つに結んである。でも、今日はすとんと落ちたストレート。
 ずいぶん伸びた、その髪も、初めて目にしたときは肩につかないショートヘアだったのに。
「先輩、元気出してください」
 初めて先輩に出会ったときのような可愛い声はもう出ない。俺の声も変わったのだ。そういや先輩が俺のこと可愛いなんて言ってからかうこともなくなった。
「泣いてないってば」
「うそつき……」
 俺は頬を膨らませて拗ねる様子をみせた。もう可愛くないのは知ってる。これは変な癖なんだ。「空気の読めない後輩ね」と、先輩は呟いた。先輩が俺のことを可愛いなんて言うからだ。だから、どこか、まだ可愛いと言ってもらいたい自分がいる。期待している俺は……少しきもちわるい。

 今は、もう何もない。やっと慣れた美術室の匂いも寂しさを漂わせていた。広いその部屋には六人座れる大きなボロ机がいくつも並べられている。
 この部屋の中央で、五人はいつも集まっていた。誰もが好きなように絵を描いては見せ合っていた。水彩絵の具と水の匂い、油絵の具と油の匂い、色鉛筆の芯や木の匂いが、もっと強くはっきり匂っていた。
 今は、もう何もない。

 少し前の出来事だった。
「いらねー」
 気の強い女子の声と乾いた音が近くで響く。卒業の日にビンタまでしなくてもな。そんなことを考えているとき、久しぶりに美術室に俺以外の人がやってきた。
 きっと、この女は言えなかったのだろう、「いらない」と。久しぶりに俺の目の現れた先輩の大きく膨れたポケットを見て思う。ポケットにいれるもんなのか。紙袋を持っているのに。
「だって紙袋の中に入れたらどっか行っちゃうかもしれないじゃない。貰っちゃったんだから、一応、酷い扱いはできないわよ」
 意味わかんねえ。
 二人の教室に風がびゅうびゅう吹き込む。ストーブしか設置されてないものの、風通しがいいこの教室は夏場でも涼しい場所のひとつだった。
「先輩、モテるんだね」
 俺は呟いた。
「第二がいくつ入っているかなんて知らない」
 先輩は寂しそうに笑った。もうずっと寂しそうな顔しかしていない。
「あいつ、は……」
 美術室に健くんはいない。彼も俺たちの前から何も言わずにいなくなる。
「なんで来ないんだろうね」
 俺の目の前で先輩がうずくまった。笑うことしか知らないと思っていた先輩が、長い髪を垂らして、いつもより短いスカートを握って、卒業証書の筒を床に落として。
「いやだよ……」
 いつもより輝いて見える先輩なのに、今日は泣いていた。

「わたしは健くんの何がほしかったんだろう。ボタンかな、言葉かな。でも、なんか、なんでもいいから何かほしかったの。なんでみんな何も言わずにどこかへ行くんだろ。ねえ……わたし、わたしは……」
 パニックっていうんだろうか、俺はただ冷めた目でうずくまる先輩を見下ろしていた。先輩は酷く震えている手で俺に両手を差し出した。
「おねがいだから――」
 先輩はきっと孤独が嫌いだ。いい人なのに、不器用だからうまく生きていけない。今すぐみんなを集めて泣いている先輩を見せつけてやりたかった。先輩は俺の好きでもない人たちを好きだった。みんないなくなって泣いている。卒業する先輩を送り出せるのは俺しかいない。俺でいいのかも、疑問なのに。
「俺はどこにも行ってなかったでしょ。ずっと待ってた」
 俺の差し出した手を、先輩はすがるように両手でぎゅっと掴んだ。
「美術室に行けば、あんたが待っていると知っていた。わたしたち知っていた。でも、わたしたちにとってそれは逃げることだと思って。

だってここは楽しいから。頑張るってあんたに約束したのに、帰ってきて笑われるなんて嫌だもの」
「頑張ったじゃないですか、先輩。合格おめでとうございます」
「全然頑張ってない……。なにもしなかったの。できなかったの」
 先輩の目からまた大粒の涙が溢れた。
「何もかも不安で、何をしていいのかわからないまま受験で。わからないまま受かって。わからないまま卒業式の練習で……そうしているうちに、ここへ戻れるタイミングもわからなくなって……」
 なによりもこの部屋と俺を含めた四人を愛していた先輩だった。なぜそこまで好きだったのか今ならわかる。先輩は、絵が大好きで、人間をすごく愛していて、なにより居場所が欲しかった。そうだろうと思う。
 先輩の好きなこの部室。俺にとってつまらなかった学校。先輩の幸せそうな笑顔がここでの日々を幸せにしてくれたのは間違いなかった。



 いつか先輩は言っていた。
「尊敬しているの。綺麗で繊細な絵を描くんだ。でも普段は違って、もっと堂々と輝いているってかんじの女子なんだよ。……少し寂しいの。教室にいるときは、なんだか、違う種類の人間みたい」
 先輩は同級生のある女子に、大きな尊敬を示していた。
 見た目は体育会系で、いつも丁寧な身だしなみと、整った顔が、俺も美しいなと感じていた彼女は美術部員のひとりだった。
 先輩はそんな彼女に学校生活の中ではなかなか近づけなかったようだったが、しかし放課後の美術室ではそんなことは感じられないほど仲良くしていた記憶がある。
 俺は苦手意識があってそんなに仲良くはなかったが、俺たちは五人で楽しい時間を過ごしていた。
 あと二人、同級生のツインテールと、先輩と同じ学年の健くんがいた。健くんは俺にとっては先輩だけど、みんな、健くんと呼んでいた

。美術部はかなりお気楽で友達のような部活……同好会のようなものだった。
 先輩は油彩画を好んでよく描いていた。健くんは人物画が好きで先輩のクロッキーを何枚も描いていた。人物画もそうだけど、先輩のことも好きだったんだろうと思ってる。
 ツインテールはイラストが驚くほど上手で、日々デッサンと風景画を交えながら漫画の上達よ、と息込んでいた。
 そして先輩が尊敬していた彼女と言えば、花のスケッチしかしない人だった。クレパスや色鉛筆、水彩でいつも細い線をみずみずしく彩る。とても繊細な絵を描いた。誰もがきれいと言いたくなる絵を描いた。
 しかしそんな彼女が一年前、何も言わずに去っていったのが今思えば全ての始まりで。
 挨拶ひとつせず転校していった彼女。先輩曰くクラスメートと涙のさようならをしたそうだけど、残された美術部員には何一つ言わないままだった。あんなに仲良くしていたのに。誰かが卒業するまで、ずっと五人は一緒だと誰もが思っていたのに。
「なんか、わたしたちには興味がなかったのかもしれないね」
 そう言った先輩の顔が忘れられない。
 残された四人の美術室には静かな空気が漂っていた。
 ツインテールは去っていってしまった彼女をとても慕っていて、そいつは美術室に来ては泣きだしていた気がする。先輩の前で辛気くさい雰囲気をつくる、俺にとってそいつはうざったい存在の他なかった。しばらく湿った日々が続いたがやがてツインテールも来なくなる。
 物寂しそうな先輩に対して、健くんは平然としていた。案外、健くんも二人に興味がなかったのではないだろうか。俺は自分と同じような存在に鳥肌が立つ。この部活は絵が好きで集まった、自分中心な人しかいないのだ。きっとそう気づいたが、誰も口に出さなかった。
「まあ三人でも仲良くやろうな」と健くんは言う。その言葉を聞いて、先輩も笑顔を取り戻した。先輩の元気が出たならそれでよかったんだけれど、やがて先輩たちは受験の勉強へと入っていったから部活もそう持たなかった。


 ほんの一年前なのか。
 この美術室もにぎやかだったのにな。空気が輝いてるようだった。

「いろいろあったよね」
 先輩が口を開いた。
「あんた、大きくなったよね」
「ばあちゃんみたいなこと言って。二年間しか知らないくせに」
「二年間で変わったよ、かっこよくなったじゃない」
 そう言われると思わず顔が熱くなった。きっと今、俺の顔は真っ赤になっているんだろう。
「成長期で、すから」
 照れを誤魔化そうと平然に言ってみたつもりだったけど、噛んだ。

 俺の手が解放されてからも、先輩は膝を抱えて丸まったまま動こうとしない。
「先輩ってば。向こうで記念撮影しあってますよ。行かなくていいんですか」
 どこへも行ってほしくないと思いつつ先輩へ問いかける。窓から見える正門の方へ流れる人たちは涙ぐみながらも誰もが笑顔を浮かべている。
 でも、先輩の涙は違う。
 俺は窓際に寄り掛かってそれらを眺めていた。先輩の発する嗚咽がだんだんと小さくなっていくのを聞いていた。

 最初に会ったときは同じ新入部員だと間違えるほどの童顔で、もともと小さい背との身長差は俺の成長期によりますます差がついた。今でも年下のように見えるこの女は、相変わらずあどけない笑顔を見せている。
「……なんですか?」
 先輩が泣き腫らした顔で俺の方を向いて立っていた。すっかり立ち直ってしまっている。うーん、弱ってる顔も可愛かったのだけど。
「ジュースを買ってきてよ。ほら……受験合格と卒業祝い。他の部活もやってるじゃない。後輩が、やってくれるでしょ?」
「いまさら」
 この人は。ため息が出てくる。しかし事実、祝ってあげてないから何も言えない。
「イチゴミルク?」
「イチゴミルクと、カフェオレを」
 そう言って笑った先輩は、五百円玉を放ってよこした。

 今年は早めの桜の花が学校の周りを桃色に囲んでいる。
 コンビニで買ってきたイチゴミルクとカフェオレと、先ほど受け取った五百円玉を机に置いた。
 先輩が机に駆け寄る。追って甘い香りがかすかに匂った。
 先輩は俺にカフェオレを手渡すと、
「意外、奢ってくれるの。ありがとう」
 と、イチゴミルクを右手に、もう一方の手で五百円玉を掲げた。
「それじゃあ、カンパイ!」
 紙パックのぶつかるかすれた鈍い音。
「乳飲料で乾杯か」
「いいでしょう?」
 無邪気な笑み。椅子をくっつけて、すぐ隣に座ってくる先輩。美術室の空気は冷たい。でも肩と肩が触れるところが温かかった。

 黙ってゆっくり紙パックの中身を飲んでいた。昔は絶えず会話が続いていたのに、何を話して良いかわからない。今話さないといけないはずなのに、互いに言葉は出てこない。
 まあ……それでも、いいかな。
「先輩」
「ん、なに?」
 俺は紙パックを目の前の机の上に置いて、その空いた手で先輩の紙パックを奪う。
 そしてもう片方の手ですぐ隣にある先輩の肩を、掴んだ。
 そのまま、静かに、先輩の唇へ。 
 
「返してよ、イチゴミルク」
「びっくりして握りつぶして中身ぶちまけないようにと思って。運動会の時の麦茶みたいに」
「あ、あれはねえ、健くんがいきなり抱きついてくるからねえ」
「いつものことじゃないか」
「いつもびっくりするのよ。もういい加減忘れて」
「大惨事でしたよね、麦茶」
「いいから、忘れて」
 先輩が恥ずかしそうに怒鳴る。ついさっきの出来事も忘れてるんじゃないかな。そんなとこもまた可愛いけれど。
「あ!」
 俺がイチゴミルクを一口いただくと、先輩が声をあげた。意外とケチだな。
「俺のおごりだからいいじゃないですか」
 もう一口飲もうとすると、先輩の頬が膨れた。拗ねてる。
 口の中にミルクの味が残っている。
 先輩の香り。
 さよなら。最後だけでも。そう思っただけだった。それ以上は要らないと思っていた。それなのに、なんで、今まで以上に離したくなくなってしまうんだろう。不思議だなあ。
 なんだか無意識に先輩を抱きしめようとして――先輩が抱きついてきた。
「ごめんなさい」
 先輩は呟いた。
「ごめんなさい、でも、今だけ」
 先輩が俺の胸に顔を埋めて震えていた。
 “今だけ”
 俺と同じ気持ちでいてくれたらどんなに幸せか。きっと、不安で寂しいだけの先輩の背中に腕を回す。ずっとこうしていられたらいいのに。ずっとずっとこのままでいたいのに。
 先輩は卒業。先輩は高校。先輩はひとつ上の女の人。だからなんだとも言えるけど、だから困ったものなんだ。現実は。
「あげる、から」
 先輩が顔を埋めたまま、イチゴミルクを差し出した。
「え」
「あげるから!」
「あ……はい」
 とりあえず、イチゴミルクも好きになりそうで。
 俺はただ先輩を抱きしめたまま、鳥が鳴くのを聞いていた。

【小説】無題


 制服の上にダッフルコートを着て、毛糸の手袋をつけた手で使い捨てカイロを貴重品のように抱きしめ彼女は玄関のドアを開けた僕の前に立っていた。ぐるぐる巻かれた紺と赤のギンガムチェックのマフラーに顔が半分埋もれている。二本の細い足が小刻みに震えていて、それを見ていると、彼女にスカートを履かせておくのは酷だと思う。
「さむ……」
 外に出るとすぐにぐったりした夏の彼女を思い出す。保冷剤アイスを額に当てながら早く冬が来ないかなあなんて四六時中言っていた。彼女は暑さにも寒さにもひどく弱い。
「あがれよ。ホットミルクいれてやるから」
「熱くしないでね」
 かっこつけて言っても彼女の返事はそんなもんだ。マフラー越しにくぐもった声は、余計に素っ気なく聞こえる。
 僕に対して投げかけられる言葉はいつも冷めている、と感じるのは僕だけだろうか。とにかく僕は震える彼女を暖房の効いた家に入れて、リビングの椅子に座らせた。それからぬるい牛乳の入ったマグカップをテーブルに置く。
「あったまる」
 そんなぬるいので温まるとは不思議だけど、それほど彼女は猫舌で。
 カップの中身を飲み干した彼女は制服。僕もたった今、彼女と同じ学校から帰ってきたばかりだったから制服のままだ。
 彼女は腕を伸ばして背伸びをすると、ストーブの前にあるソファに移動した。その後ろをロキが追う。
「ロキ、おいでー」
 黒猫は、ややグリーンがかった金色の瞳を彼女に向ける。彼は抱き上げられてソファの上に乗り、やがて人の家のソファで勝手に寝転ぶ彼女の脇に落ち着いた。
 客人もペットも、僕の姿なんか見えちゃいない。
 ふっ、と苦笑してみると、気になったのか彼女がちらっとだけこちらを見たけど、またロキに視線を戻す。彼女に温かさっていうものを求めてはいけない。もっとも彼女は寒いのもキライだけど。
 二人掛けの狭いソファに膝を折って丸まる彼女。傍のロキを見つめる彼女の瞳はなによりも柔らかくて優しげだった。指先でそっと彼の頭を撫でている。僕はそれを見て、僕も猫だったならば、なんて、いつも考える。

 北欧神話で有名なムードメーカーは美しい美貌と才知に長け、味方するとおもえば裏切る、気まぐれな神である。
 黒猫の、彼の名は僕がつけた。彼はもともと野良猫で、学校から帰ってくる時、よく家の前を通ってた彼。全身が黒、ただその瞳だけ金色を見せていた。野良猫にしてはめずらしく長い尻尾を持っていた。
 ある日の帰り道も当たり前のように彼は僕の家の前にいた。僕は玄関のドアを開けた。そしたらさも当然のように彼は僕の家にお邪魔したのだ。
 彼は家の中を悠々と歩いてその際に立ててある物は倒し、上にある物は落とし、家の中をめちゃくちゃにしようとした。
 僕はとりあえずあとから追うように倒された物を立て直し、落とされた物を拾い、彼を捕まえた。それから外に出そうとした時、勝手に玄関のドアが開いたと思ったら妹が顔を見せた。
「かわいい! すごく綺麗な黒猫。どうしたの? 飼おうよ!」
 妹は僕の手から彼を奪うと、まだ僕が質問に答えてないのにそんなことを言った。
「おまえな、こいつが何をしたか……」
 なんて言おうとしたけれど、妹は聞いちゃいなかった。

 ある日、彼女が無類の猫好きだということを知って、
「黒猫も好きなの?」
 なんて聞いてみたら、嬉しそうな顔で猫について語り出された。彼女と向かい合ったのは初めてだった。
 その日からよくうちに来てはロキといつもくっついている。
 妹がかまってやると彼はするりと抜けて僕の部屋(兼、いつの間にかロキの部屋)に帰ってしまうのだが、彼女に対しては気にしないようだ。なんてやつだ。いや、けっして猫に嫉妬なんかしてないさ。してないとも。

 彼は黄昏れ屋で、よく台所の流し台の前にある窓から外を眺めている。 もし逃げ出していなくなってしまったら彼女に何て言えばいいんだ、なんて焦ったが、彼は旅立つ予定などないようだった。
 毎日ちゃんと黄昏れ時になると台所にやってきて夕焼けの世界を眺めている。そして日が沈むと、僕の部屋に来て、部屋の隅で丸くなる。
 共同のスペース、つまりリビングなどで暴れられると困るから、昼間は僕の部屋に閉じこめてあるのだが、どうも抜け出される。ドアの近くに机があるのがいけないのだろうか。しかし暴れてはいないようだった。


 静かな部屋に寝息だけが聞こえている。彼女の髪は黒くしっとりとしていて、白い肌がより映える。ロキと寄り添って横になっていると、そこに猫が二匹、昼寝をしているようにもみえた。
 僕は部屋からイヤホンを引っ張り出してきてテレビに繋げた。イヤホンを耳にしたまま現在地からやや離れた場所にあるリモコンをとろうとして、耳が引っ張られる感覚と同時に音が消えた。テレビの音がリビングに流れ出したので、慌ててテレビの電源を切って彼女とロキを見る。寝ている。
 気を取り直してニュース番組にチャンネルをいれた。イヤホンをつけると、凛とした女性の声が僕らの住む町の名を呼ぶのが聞こえる。
《町の野良猫 相次ぐ謎の死》
 そんな文字を目にするのも、その事件を聞くのも、もう三度目くらいだ。
『一週間ほど前から、異常な数の野良猫の死体が相次いで見つかるという事件が起きています。何者かが市販の猫用のエサに刻んだネギを混入させ野良猫たちに食べさせ――』
 今まで猫や犬なんかに興味などなかったが、聞いたことがある。動物はネギやタマネギで中毒を起こす。ネギに含まれる成分が赤血球を壊すとかなんとか。
 隣の町やそこら辺での事件なら幾度かあるが、しかし、この町の事件をアナウンサーが読み上げるのは聞き慣れない。金目当ての強盗が店に入っても、誰かさんが自殺しても、ああ近くなんだな、と思うくらいだ。連続無差別殺人事件じゃなければ僕には関係ないからだ。
 だけれど今、僕は少しだけ心配だった。
 もっともロキは室内飼いだ。しかしいつも野良猫を追い回してる彼女は事件に巻き込まれないだろうか。
 子猫のような彼女を眺めながら、僕はそんなことを思う。しかし考えると止まらない。いつ彼女が間違って大怪我を負ったり、殺されたりするかなどわからない。それはこの世に生きていれば何だってそうだけれど、そんなことを考えてしまうあたり僕は、彼女が本当に好きだった。


「……う」
 彼女が唸る。
 狭いソファに丸まって寝ているから体が痛くなったんじゃないだろうか。それでもまだ幸せそうな寝息を聞かせている。
 寝ていると人形のようでもある少女を、僕はソファから少し離れたところから眺めた。どっちにしろ、もう日が暮れる。
「………」
 暗くなる前に彼女を起こして帰さないといけないと思った僕は、いつも一筋縄じゃ起きない彼女を揺さぶろうと近づいた。
 手を伸ばしたその時、ロキが彼女の脇から跳ね起きた。
「うっ?!」 
 彼はしばらく僕を見つめていて、その顔が『してやったり』みたいに見えて気に食わないぞ。そして僕の間抜けた大声が響いてもすやすや眠り続ける彼女を、今度こそ強く揺さぶって起こしにかかった。
「起きてくださーい」
 数回呼んでなんとか起こすことができた。彼女は、まだ寝ぼけた顔でコートを羽織り、マフラーをぐるぐる首にまいた。
「じゃあね、ロキ」
 それだけ言うと、僕に軽く会釈して冷たい風に対して愚痴を叫びながら帰っていった。僕はただそんな彼女を見送る。
 彼女はロキに会いに来ているのだから僕には端から興味などないこと、知っているけど。
「はあ……」
 何度目かのため息をついた。彼女にとって僕がロキのおまけだと思うと、いたたまれない。
 リビングに戻り台所を覗くと、黒猫が一匹、流し台の上で外を眺めていた。安いキャットフードの乗った皿を彼の隣に置いて、また自然とため息が出る。
「飯もくれてるんだから、ちょっとは感謝とかしろよ」
 僕には目もくれず、飯を食べ始めるロキ。少しも鳴かない猫ほど可愛くないものだと気付く。

 彼女は毎週、火曜日と木曜日と金曜日にくる。
 なんでか聞いてみたら、
「暇だから」
 と、一言だけ返された。
 彼女はまったく無口なわけではないし、学校でも普通に言葉を発する。僕の家でも例外ではないが、しかしそれは、だいたい独り言のようなものだったり、ロキに話しかけていたり。僕の質問に熱心に答えたことはない。
 それでもまともに口を聞いてくれるだけ別に嫌われてはいないようだった。
 嫌いな男の家になど来ないか。そう思うと幸せだと感じる。そんな独り言を僕は何度も呟いてポジティブシンキングを保っているとも言う。
 父も母も仕事で、妹なんか放課後は友達の家で過ごしているらしいから六時くらいまでは帰ってこない。
 僕はロキと名付けられた猫と、彼を好きな彼女との時間を幸せに思っていた。時が止まってくれればいいと思った。それでなかったらこの日常が、いつまでも続けばいいと、切実に願う。

 今日も野良猫が毒殺された。ニュースの女性アナウンサーが落ち着いた声で告げる。彼女が帰った金曜日の夕方。

「ロキ。おいロキ、どこだ」
 太陽が落ちきって辺りは完全に暗く、夜になっていた。
 いつもと違って部屋に帰ってこない彼を探しに台所へ向う。
 いない。黒猫は見当たらない。ただ流し台の正面の開いた窓から、冷たい北風が入り込んでいるだけだった。
「あー……」
 やっちゃったか。やっちゃったのか。
 ついに彼は、野良猫生活へもどったのだ。危ないこのご時世に勇気あるものだ。ここにいれば、いつまでも安全で幸せだったのに。

 それから四日、いつもなら彼女がうちに来る火曜日……僕は、彼女の家にいた。
「なんでだよ」
 部屋に入った僕の呟き。
「捜したんだぞ、おまえ」
 彼はつんとそっぽを向いたままだ。彼女の家に来た僕は早くも脱落寸前だ。
 何かがあるとは思っていた。初めて彼女の家に呼ばれた。「見せたいものがある」、と。彼女が行動するときは何かが起こる。同級生がうわさする。
 しかし、彼女の家に見覚えのある黒猫が当たり前のようにいたのには……。
「びっくりした?」
 いや、もう君たちの気まぐれマイペースにはついていけない。勝手にしたらどうだ。ついに僕は彼女に降参する。
「やだやだ、そんな顔しないでよ。はい」
 差し出されたミルクティー。
「……ありがとう」
 信じられないほど、ぬるい。というより冷たいに近い。それでも黙って口にする。
「それ、毒が入ってるかも」
「え」
 何を言われたかよくわからなくて、よくわからなかった。
「って、思わないのかな。ふふ、その反応おもしろい」
 その時、彼女が僕に笑いかける顔を初めて見た。
 リビングルームには時計からなにからアンティークな置物が多く飾ってあった。
 彼女の家の台所は、家の真ん中あたりにあるから窓はない。もちろん夕暮れに外を眺めることはできなかった。
 それでも、いいのか。僕よりここがいいのか。本当に可愛らしくない猫だ。
 ふと流し台にネギが二、三本あるのが目に入る。
「ああ、それあまったの。今晩のうどんに入れるつもり。一緒にどう?」
 僕は何も言わなかった。
「どうしたの? うどん嫌い?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 そうとだけ言って、僕は苦笑いした。
「じゃあ一緒に食べようよ。どうせうちには遅くまで誰もいないから、自分のために料理なんかしても楽しくないし」
「親、そんな遅くまで仕事なんだ」
 僕の両親は夜になれば遅くならずに帰ってくるから、晩飯が一人なことはない。
「……無関心なんだ、うちの親。わたしが何をしたって気付きやしない」
 今日は、なんでそんなに話すのかな。
 夢心地のような、ふわふわした感覚で、僕は彼女の家に立っていた。

「わたしね、猫が大好きなの」
 ぬるいうどんを手元に、重大な告白をするように言う彼女。
「知ってる」
「そうだね。知ってるよね」
 嬉しそう。
「綺麗で、気ままで憧れる。ロキのこと大好き、ロキに変わる子なんていない。見つからない」
 うっとりとした眼差し。
「野良猫なんてみんなバカ。ロキが一番なの。ワガママで知的で可愛らしくて。ね、そう思うでしょ?」
 それは、彼女の挑戦だったのかもしれない。あるいはただ何となしに試しただけで、あるいは興味本意のみかもしれない。どれにしても彼女はきっと寂しかったんだろう。
「気付いてもらいたかったんだ?」
 寂しいこと、愛したいこと、愛されたいこと。
「うん」
 彼女は、また幸せそうに笑った。
「苦しんで死んでいく様は見ていられなかった、ロキのように黒く強く生きるのが一番きれい――そう思うでしょ?」
 いちいち同意を求めてくる彼女が、自分を正当化したい彼女が、あんなに美しいだけの整った彼女の顔が、初めて、痛々しく見えた。
 ただ、
「そうだね」
 それが異常であっても、僕は惹かれていた。

【小説】レゾンデートル

「死にたいの?」
 と、あなたは聞いた。
「望んでなんかない。けど、別に、死んでもいいと思ってる」
 答えると、あなたはためらいながら、また聞いた。
「なんで?」
 この前わたしが一人で考え抜いたセリフを口にする。
「だって、どちらもつまらないから」
 生きること、死ぬこと、どちらもよくわからない。生きる意味も、死ぬ意味もわからない。だから、どちらでもいい。どちらも望んでなんかいない。そんなところ。
 よくできた答えでしょう。わたしは満足した。
 あなたが何て言うか楽しみにしていたら、
「本当は、生きていたいのに」
 言われてしまった。
 それから、わたしを抱きしめる。わたしの腕から出ている血で服が汚れるのも気にしなかった。せっかく真っ白に洗濯してあるワイシャツなのにもったいない。生きていたいな、あなたとずっと一緒にいられるなら、幸せだな。そうは思う。だって、こうやって心配してくれる人ってあなたしか知らないから。
「死んでもいいのは本当だよ」
 わたしはもっと深く悲劇のヒロインを続けたくてそう言う。
「でも、死ぬ理由が見つからないんだろ?」
 また、知ったふうに。
「うん、そうかもね」
 わたしは握っていたカッターを落として彼の腰に腕を回した。あったかい。こうしてくれるのだったら、自分から腕などいくら切り刻んでも痛くなかった。

 綺麗な、綺麗な、赤色だ。

 わたしの誕生日は誰からも祝われない金曜日だった。わたしがプレゼントに気づいたのは、誕生日から三日も経った月曜日の学校だった。
 ロッカーで見つけたその手紙には、あなたの字で祝いの文章が綴られていた。

『僕は理由を見つけられた。だから、』

 その手紙の文字は真っ赤なペンで書かれていた。
 水性だったのか、すぐ滲んでしまった。それでも頬を伝う涙は容易く止めることができない。
 三日前だった。
 おばさまが純白を好んで、それを基本としていた、あなたの家のリビング。まったく調和も見られない狭いわたしの家で、ただひとつ和みをもった若草色の畳。
 みんな愛していたけれど、全部わたしの誕生日に真っ赤に染まった。きれいだな、って思った。でもそれは寂しい色をしていた。
 その日、投げやりなおばさまも、怒りん坊なおじさまも、やりたい放題だった弟さまも、ついでに手を上げることしかない父さんも、そして、一番に愛していたあなたも、一瞬でわたしの好きな色で染め上げられた。それはとても素敵な出来事だった気がする。

 でもね、わたしが見たのは後に残った、浅くて汚い色だったの。

『たぶん、一生忘れられないほど素敵な誕生日になっていると思う。』

 この手紙を読んで確信した。そしてやはり最高なプレゼントだったのだと納得した。
 涙が止まらない。滲んでしまう。全部滲んで、あなたの残した字がなくなってしまう。
 あなたは、出会った頃からいつまでも、どこまでも意地悪だった。
 わたしの笑わない顔も好きだと言った。そんなあなたが、本気でわたしを愛していてくれたのは、どうしてか今さら知ってしまった。わたしのこんな泣き顔を、最期に見られなくて残念だったでしょう!
 そんな最低なあなたの傍にいたのは、傍にいるときだけ少しの希望みたいなものが見えたから。ヒロインの座なんてもういらない。もっと彼を大切にしてあげたかった。あなたはわたしを抱きしめて、少しでも癒やされていたのだろうか。わたしのように。



レゾンデートル   存在理由。

【小説】ティータイム

※オス猫 → 飼い主の男子 のおかしな小説ネタ、途中放棄のぶつ切れメモ。
猫のベルガモット、リゼと、ご主人様、友達、その飼い犬キャンディが出てくるはずだった。
リゼは近所の飼い猫。もともとは野良の子で気ままで気取った性格のベルの親友。

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「頭を撫でてくれる時の、あの顔! にこっと笑うとこうくにゃっと本当かわいくて、でもなんだかすごいかっこよくて……はあ、もう忘れられないあの笑顔やばいくらい輝いてるの」
 うっとりとした顔で彼女は言う。俺はてきとうに「あーそー」と返した。
「ちょっと! だってあんただってそう思うでしょ、笑ったとき、すごい可愛い顔するでしょ」
「うん、そうだな」
「ちゃんと聞いてる? 聞いてないでしょ」
 まあ聞いてるし、そう思うからそうだなって言ったのに、返事をしてもしなくてもそう言う。
「あたしは、あんたが羨ましいと思ってるのよ。そりゃあんただってきれいなカッコしてると思うし、わたしはどうしても野良として生まれたから。それでもあんたよりもうすこし早く彼と会ってれば、わたしを飼ってくれたかもしれないでしょ。だからうらやましいのよ。わかる?」
「わかる」
「うそよ!」
 なんでこいつって返事求めるのに返事すると怒るの? メスってみんなこうだ……。カマキリの世界なんて夫を食いやがる。


「べっぴんさんだなあ、彼女か? おまえもスミに置けないな」
「ちが……オレは別にこいつと好きでいるわけじゃねえよ、むしろ……その、お前と二人で……いたかったのに」
「うんうん、わかってるって。子猫期待してるぞ」
 ああそうねツンデレったってこういうとき言葉が通じてねえなって感じる。なんか、寂しい……。
「なんて思うかボケ! バカ! オレを見ろ!」
「……。腹減ったのか?」
 うおおおお言われなくても見てるじゃねえか。
 だがなんでもかんでも腹減ったのかってオレどんだけ大食いだと思ってるんだ。
「あーんた、相手にされてないわねえ」
「うるせえええ! おまえだってされてねえじゃねえか! いいんだよ、あいつはちゃんと俺が好きなんだからいいんだよ」
「わたし美人だって言われたわ」
「ちげえええあれはお世辞ってもんなんだよ」
「でもネコなんてみんなかわいいかわいいで終わるのに、ちゃんと美人って言ってくれたわ。それにメスだってわかってくれた」
「あいつはネコ好きなんだよ、みんな美人にみえんの。俺だって言われたことあるよ」
「も、なにムキになってんの。ふふっ」
「ちくしょう!」

 *

 あーあ。オレがわがまましてもコイツはただ見守ってくれるし、オレに嬉しそうな顔してくれる。
 だからオレも呼ばれたら側に寄ってやるくらいするんだ。
 それでいいじゃねえか。家に帰ってきたら、オマエは漫画でもラノベでも読んで、ゲームでもしてアニメでも見て、オレはその膝の上で寝てる。それでいいじゃねえか。
 それの何がいけないんだよ。
 何がいやなんだよ。
「おじゃましますー。おーなんか猫いるー」
「そうこいつベルね、本名ベルガモットさん」
「お、かっこいい」
 うーなんだこいつ。誰か来た。
「何か飲むか? サイダー?」
 うろちょろすんな、立ち上がるな。俺の居場所がなくなるだろうが。
「なーんだよ、ベル。あっちいってろ」
 なんだよ。なんだよはこっちのセリフだ。じゃまみたいに言うな。
「じゃまだぞ」
「じゃ……」
 じゃまって言うなー!

 *

「どうしたのよ、暗い顔して」
「だってさあ、最近友達とばっか遊んでんだ」
「ふーん……」
「ね、コトバが違ってもココロってのは通じるのよ。強く思う、伝えようとするココロ。それがあれば問題なしよ!」
 リゼは毛並みを整えて、くるっとまわって、また座った。
 ほんとうによく知ったように、人には勝てない短い時のなかで、本能的に知識をもっていると俺は思った。
 実は、リゼは人としゃべれるのではないか。あいつに話しかけるリゼは自然なのだ。
 だから俺もできないかと、そんな錯覚を起こしてしまう。

 コトバが違ってもこころってのは通じる。強く思うこころ。伝えようとするこころ。
「す、す、す、」
 それがあれば問題ナシ。
「すき、だ」
「………」
「……なんだよ。気持ちわるいな」
「え」
 これは……伝わったのか?
「メシ食うか?」
「………」
「うん」
 きっと伝わらないのだろうけど、また一段とおいしい飯を出してくれるコイツはきっとオレのことをちゃんと好きなんだろうと思う。もう一番になろうとか思わない。それに気づいただけで十分だから。だから、嬉しそうに鳴いて答えてやるんだ。
「ずっと側にいろよな」
「わかったわかった、いま水を持ってくるから」
 だから違うっての。

【小説】マンホール

 ある日、僕はマンホールの側に、ゆっくりと慎重に自転車を止めた。耳を澄ませば、やっぱりその丸い鉄のフタから十時のラジオが聞こえてきた。傘をさす気も起こらない小雨の降る暗い路地から、僕は誰にも気づかれないようゆっくり自転車を漕ぎ出し、去っていった。

 次の週の土曜日も、高校受験を控えた僕はやっぱりまじめに塾へ通った。とりあえず十時ちかくまで談笑しながら、暗い夜道を自転車で家路につき、息を殺してマンホールの隣を通り抜けた。はずむように愉快な男性の声が、リスナーのみなさん、と呼びかけていたのがふわっと耳に入る。僕はそれを確認すると、やっぱり静かに去っていった。

 僕の部屋にはラジオがあったが、土曜日に塾が休みになっても、十時からのラジオは聞いてみたくは思わなかった。

 僕はめでたく高校生になった。塾をやめてしまってから、マンホールの道を十時に通ることはなくなった。土曜日の十時はいつも、ゲームをしていたりテレビを見ていたり、いつの間にか気がつかないうちに過ぎてしまっていた。

 枯れ葉が落ち始め高校生も退屈になってきたころ、僕は友達と別れひとり家路についた。遅い時間、人通りの少ない暗い中を自転車ですいすいっと走り抜けるのは懐かしい気持ちだ。……あの頃は頑張っていた。決して未来は見えず、夢も見なかったけれど、空っぽで夢見ている今よりはずっと何かが詰まっていた。
 今さらになってよくよく考えてみた僕は、心拍が大きくなっていくのを感じた。当たり前のように聞こえていたマンホールのラジオ。僕は十時にしか聞こえないことを知っている。僕は“そいつ”が十時の番組が好きなんだと思っていた。僕はその番組名も知っている。新聞のラジオ欄で調べたからだ。
 しかし、僕は“そいつ”のことを忘れていた。僕は“そいつ”を知らなかった。
 いろんな作り話が浮んでくると、急に手が冷え切っていることに気づいた。知らないうちにハンドルを路地裏に向けてしまっていた僕は、マンホールから十分距離を離して乱暴に過ぎ去った。僕だと気づかれたくなかったからだ。僕は何も知らない、ただ偶然この道を通りすぎただけの一般人だ。

 どうか僕だと気づかないでくれ。
 僕は何も知らない。僕は君を知らない。知らない。

 僕は部屋に入り込むと、ラジオを付けた。聞き慣れていた懐かしい男性の声は、まったく変わらないで弾んだ声色で、リスナーのみなさんからの恋のお便りです、と紹介した。


 小さな穴からピンポイントで相手の方を見ているような、そんな恋心ですかね。


 そんな恋心はごめんだと、僕は布団を頭までかぶって寝た。

【小説】女子高校生

 分厚いハードカバーの本を手に取った。意外と軽い。アーガイルの表紙と気品のある金色のタイトルが欲しいと思わせた。
「買ったって読まないのよね」
 あれもこれも欲しいと思わせる。時にマリー・アントワネットはお読みなさい、と色とりどりのお菓子をつまみながらこちらに語りかけている。それでも迷って古本にかこまれて立ち尽くしていると、ホームズは、無駄な時間はそこら中にありふれている、と教えてくれた。
 でもわたしは知っている。そこにいる友達との会話や、テレビ放送は、思った以上に忙しいものなのだ。
 わたしは普通の女子高校生だから、コンビニの前で甘いミルクコーヒーを飲んでいたっておかしくない。

 欲しい。かわいい本。
 そうやって毎日、何かを手に入れては満足して、すぐ腹を空かす。わたしは普通の高校生だから、好きなものを寄り好んでたくさん食べたいお年頃。だけど大トロが食べられないのだったら、せめてスーパーのネギトロ丼をお腹いっぱい食べたい。

 ああ、でも、たまにはやわらかいお肉も食べたい。

 とは思うけど、料理はとても面倒くさいと思うぐうたらな女子高校生だから、おもむろにブレザーのポケットからケータイを取り出して、メールを打つ。
 数十秒待っても返信が来ないから、ポケットに戻して古本屋から出た。

「わたしのメールに黙って返信さえすりゃいいのに」
 安いネギトロ丼で十分だから、まったく切らさないでほしい。

「ばかじゃないの……」
 ネギトロ丼は、わたしがコーヒーを飲みながら本を読むことに頭がいっぱいで、しかも大トロが本命だと思っていて、そいつにすがって生きていることを知らないのだ。

 次の週にアーガイルの表紙はなかった。
 フィレンツェの商人が一方的に語ることを適当に理解して、ギリシャの白い町並みを買った。

 おもむろにブレザーのポケットからケータイを取り出して、電話をしようとアドレス帳を開いたけれど、やっぱりわたしは普通の女子高校生だから、そっけないメールを打ってポケットにしまった。

【小説】手を繋いでいた瞬間


 何が恨みがましかったのか、これまで生きていて彼女だけは避けていた。

 それは、物心ついた頃からそうだ。
 優柔不断な性格を、母や友に指摘されて、そのうちに、好きなものと嫌いなものをきっぱりと分ける性格になっていた。それでも彼女を分類することが、今まで、できていなかった。そして今もだ。
 幼い頃から悩み続けていた、不思議な感覚。それを「嫌い」というのかもしれない。
 彼女の目線や、声や、行動が、全て気になった。「好き」に近い感情だと思っていたけれど、それとも違う。とにかく、いつもどことなく、「彼女とわかり合える日は来ないだろう」と、そう思っていた。

 字も読めない小さな頃に出会い、何年も同じ場所に通い、時には同じ教室で過ごし、子供の時代を「ずっと一緒に」と言っていいほど傍で過ごしてきた。数え切れないほど接したけれど、それは、どれも外側と外側だけのこと。
 彼女の何が嫌いかと言えば、全てだった。彼女の仕草や話し方、友達、どれも簡単に思い出せることができる。全てが気にくわない。それなのに、彼女の何を知っている、と問われれば、何ひとつ彼女のことを知らない。ただそこに存在していることしか知らない。

 彼女がわたしの世界に関わることを、わたし自身がひどく怖がっていた。
 あれはいつの日だったかわからない。とても曖昧な記憶だけれど、雨が降っている日。裸足だったかもしれない。彼女と、彼女のお母さんは、どうしようもなく幼稚なわたしに言った。
 何かを言った。
 それが、幼稚なわたしを傷つかせたものだったかどうか、正確に思い出せない。それでも、その光景は、今まで忘れることはなかった。雲が空一面に、薄暗い日だった。
 あの日から、彼女を嫌った。他人がわかりえない「自分の世界」があることを知った。その対象や象徴として、彼女を見ていたのかもしれない。あるいは、幼い頃から同じ場所にいることで対抗心があったのかもしれない。仲良くしなければいけないという押しつけを、跳ね返したかったのかもしれない。

 仲良くなりたかった。明るく活発な話し方が良くて、彼女やその友達のような、女子らしい格好や小物や発想に憧れていた。一度は、そういう友達や物に囲まれてみたかった。
 知らないままで、解決しないままで離れていかなければならないことに気づいたとき、後悔した。
 彼女のことを、もっと知りたかった。知っておけば良かった。それからじゃないと、「好き」だとか、「嫌い」だとか決められない。

 厚くて重いアルバムに、なつかしい小学校の正門と、その前に、
 わたしと彼女が手を繋いで立っていた。




手を繋いでいた瞬間




くっつかず 手だけを繋いで 二人はどうして笑っていたんだろう。

【小説】ふたりひとり


           ふ た り ひ と り

あるところに なかのいい兄弟がいました
兄弟は いつも いっしょにいます
ふたりは おたがいのことを 自分のことのように たいせつにしました
ある時 おわかれの日がやってきました
「いやだ いやだ」「ひとりはいやだ」
兄は言いました
「それなら ふたりで だれもいないところに行こう」
ふたりは はなればなれに なる前に だれもついて行けないところに
きえてしまいました


あるところに なかのいい兄弟がいました
兄弟は いつも いっしょにいます
ふたりは おたがいのことを 自分のことのように たいせつにしました
ある時 おわかれの日がやってきました
「いやだ いやだ」「ひとりはいやだ」
ある朝おきたら ふたりはひとりずつになっていました
なんかい朝がきても もうひとりの自分はいませんでした


やがてこころもからだも大きくなりました
ふたりはひとりで歩けるようになると もうひとりの自分をさがしにいきました
そのうちみつからなくて泣きだしました
けれどふたりは おたがいをさがしつづけました
ある時ふたりは うまれたおうちをおもいだしました
「きっと おうちにかえれば ふたりはひとり」
ふたりはうまれたおうちにむかって あるき出しました

ある朝おきたら ふたりはいっしょにいました
いつまでも ふたりはいっしょにくらしました



まよいなんて どこにもなかった  ぼくらの分だけ ぼくらの道があったのだ

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