「転ぶぞ、鞠奈」
足下にある犬の咥えていたボールに気づいていない。
「あだっ」
どてんと転ぶんで犬にまで見下ろされている。
どう考えてもオレより下等のイキモノだ。普段は健気に恋する女を気取ってみているくせに、ほら、どちらが遊ばれているのかわからない。
「ううー……」
見ろ、こんなふとしたときの不格好さときたら。
「なんですか先輩。なに見てるんですか。あ、笑わないでくださいよ!」
「似ているなあ……こいつら……」
「何か言いました?」
「いや」
俺はバカな犬を二匹も飼っているようだ。
家の外に出ると、どうも無意識のうちに『他人と接する自分』になることは気づいている。いや、大抵の人がそのようだ。しかし考えると外に出ているときのほうが長い。だから本当の自分がどちらかともよくわからないものだが。とにかく外にいるときは家にいるときのだらしないような仕草は、上手い具合に現れないものだ。
鞠菜の前ではそんな振る舞いをしなくてもいいと自然と思っている。兄や犬と二人きりでいるような感じだ。
これに気づいたのは先ほど、顔面を床に打ち付け不細工な顔をしている鞠奈の頭を、ふいに撫でたくなった時。だってあまりにも俺の馬鹿犬に似た顔をしてやがったから、つい。
「おい、もう暗くなってんぞ。帰った方がいいんじゃないか」
「ばかにしないでください、まだ五時じゃないですか。わたし高校生ですよ」
鞠菜の目はまだ赤みを帯びている。
「それともそんなに帰ってほしいですか」
「別に。好きにしろ」
で、また赤が増していく。すぐ後ろの犬に向きなおってしまったが、涙は溢れただろうか。
泣かないでほしい。泣いているヤツはきっと辛い。悲しくて涙を零している。涙が込み上げる時の気持ちは俺にだって十分わかる。だから、泣かないでほしい。
「おんなのひとだね」
鞠奈が振り返らぬまま、俺の持つ受話器から漏れる声に反応する。
相変わらずこの女の声はうるさい。
「わかった、わかった待ってるから」
電話に適当に答えて相手の返事など聞かずに切る。
「明日香さん?」
「いいや。……悪いな、これから友達が来るから、そろそろ退いてくれ」
「うん」
なぜか今日は素直にそう頷いて荷物をまとめ始めた。
「新しい彼女?」
「………」
ああそうだ、と言ったらコイツはまた泣くだろうか。
「楽しく無さそうですよ」
「そんなことない」
「わたしは明日香さんの方が好きです」
「関係ないだろ」
今から飛び込んでくるだろう勘違い女に余計に怒鳴り散らされたくないっていうのに、今日はやけに帰り際に話しかけてくる鞠奈。なんでかな女ってこうなると、こちらがそうだなと言うか無理やり丸めくるんで黙らせるまで決着を付けたがらないんだから……。
「いいですよ。わたしはまだ、お子様ですから。おとなしく帰ります」
めずらしく相手してあげようと思ったらそっぽを向いた鞠奈に拍子抜けする。
「今日は潔いんだな」
「わたしあなたにできないことできるの気づいたの」
「お前にできて俺にできないことなんてないだろ」
あまりにも得意気な顔をするから言ってやると、すかさず鞠奈はこう言った。
「ある。わたしはあなたを愛せる」
俺が小突く前に、ふ、と悲しい顔をすると、
「あなたが愛せないあなたを、わたしは愛することができるんですよ」
そう言いながら踵を返して去っていった。そんな鞠奈の背中に、「生意気なやつ」と呟くことしかできない俺は、なかなかこの世も自分自身さえも愛せなかった。
「ちょっと、せっかく今日は機嫌が良いからケーキ三人分買ってきたのに、どうしてくれんのよ。マリちゃんいつにもまして涙目だったの、また何か言ったんでしょ。なんで後輩に優しくできないの」
「なんでおまえ来るの」
別に鞠奈が嫌で帰したわけじゃない、なんか、ほら、お前のもんじゃないのに勘違いしてる女っているじゃねえか。そいつに鞠奈が睨まれたら可哀想だと思っただけなのに。とにかく、こういうふうな厄介事を避けたいから俺ひとりになったのに。
去り際おまけにと思いっきりビンタされた頬をさする。
「いいでしょう、あんたは女の一人や二人、気にしないで」
「明日香……来るなら来ると」
「約束があるならあると言いなさいよ」
どうでもいいが、もうすこし空気を読んでほしかった。
「まあ、いいけどさ。あいつやたらと電話してきてうるさいし。おもしろいヤツなんだけど、どっか自分しか見えてないところ嫌い」
明日香に追い払われて、これでもう懲りてくれればいいんだが。
「楽しそうでいいわね」
「でもああいうタイプは約束を破ったとか捨てられたとか言うんだぞ。理不尽な恨みを買うのは俺なんだぞ」
「わからなくもないけど、無防備にして女を近づかせないことね。あんたは何考えてるのかわからなくて、接してるこっちはなんだかイライラするもんなのよ」
「みんな勝手すぎる。自分しか見えてないったら」
「あんたがだらしないだけ」
女のそういうところが嫌だ。みんなそうだ。勘違い生物め。
「あんた、捨てた犬が何度でも帰ってくると甘えてちゃダメだよ」
「なんのことだよ」
「山奥に捨ててくれば帰って来られないのに、あんたがどこか甘えて近所の公園なんかに捨ててくるから何度だって帰って来ちゃう。全部が全部、帰ってきてしまうマリちゃんのせいだなんて無責任なこと思ってんじゃないのよ」
「くっ……」
君の説教口調は相変わらず。
「何その気持ち悪い笑い」
「なんでもない」
「なあに、人が真剣に話してるのにおもしろそうに」
「いや、犬なんだな、って」
「はあ?」
君は不愉快そうに眉を寄せる。
「あんたがね、取ってこいと言えばボールを持ってくるのよ」
そうか、そうなのか。
「それが今日な、めずらしく俺にはむかいやがった」
「あら、マリちゃん何て?」
「わからない、幼い女の考えることは」
「聞かせてよ」
「もう覚えてない」
あなたの愛せないあなたを愛することができる。
「思い出せないよ」
明日香の持ってくるやつはいつも甘すぎる。俺は部屋の隅の冷蔵庫からビールを取り出しに立ち上がる。
「年下の若い子が恋しくなったって、もうどうしようもないんだから。マリちゃんを傍に置いておけばよかったなんて、後悔しても知らないわよ」
「しないよ、俺は」
後ろからの忠告の声はつづく。
「わからないやつね、自分を理解してくれる女がどこかにいるとでも思ってんじゃないよ。それだから女どころか男の友達だってろくにできないんでしょうね。人間は目で見て声を聞いてあんたを理解してるんだから少しくらい愛想笑いでもしたらどうなの」
「いいよそんな疲れることするかよ。今でも十分やれてるよ」
君のため息が背中に降りかかる。
「いつも正反対の言動なんだから」
俺を理解してくれる人、か。
「そんなだから、だれにも理解してもらえないのよ」
……本人は気づいていないようだけれども。
「ちょっと、聞いてるの?」
皮肉なもんだ。こんなに近くにいるのに。
「もうやめなさいよ」
俺の持つ缶を睨む君。君が女だから俺はどこまでもアルコールが足らないんだよ。俺が心を広くして決着つけてやらなきゃならない。
「別にさ、俺は鞠奈、好きだよ。おまえよりずっと俺を愛してくれているしね」
視線が俺の手元から目に移った。
「そうよ。そうでしょ。最初からそう言っとけばいいの」
彼女は満足げに微笑んだ。机の上にぽんと置いてある彼女の手。その手に自分の手を重ねようとして――すれ違った。彼女はその手で横髪を耳にかけ、両手でグラスを傾けた。
俺を理解してくれる人は、いつも君だった。そんな君は、「あなたって、本当にわけわかんない」と否定の言葉を発する。
ガール・フレンド、
「独りの君こそ俺にどうしてほしいんだい?」
眠ってしまった君にその言葉はまたしても届かない。
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